新宿区内を散策して集めた「タイムトリップ」の記事です
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タイムトリップ
忠臣蔵と新宿 12月/2001年  by 清水裕二
 最終回は、吉良さん側から見た忠臣蔵です。
 1701年(元禄)江戸城松の廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を斬りつけた事件が一連の出来事の発端となりますが、「なぜ浅野は吉良を斬ったのか?」の真相はよく分かっていません。
 一般論では、勅使馳走役の浅野が高家吉良(勅使接待の指導役)に賄賂を送らなかったので、十分な指導が受けられず失態続きとなり、ついに不満が爆発して刃傷にいたったということになっています。吉良は賄賂好きの悪者というイメージですが、ここで注目して欲しいのは「高家」という役職です。この役は、室町時代より続く由緒正しき名家が就任するしきたりでした。
 しかし、石高は多くなく数千石しかありませんでしたが、家格は諸大名家に匹敵しました。しかし、収入が少ないので、毎年の勅使の接待方を大名に指導して、その指導料をもらって収入を補っていたわけです。
 別に賄賂を要求したのではなく純粋に指導料として請求し、それが支払われなければ吉良さんも多少指導に熱が入らなかったことは推測できます。では、なぜ?。
ここに面白い説があります。『考証 江戸奇伝』(稲垣史生著)の「その瞬間の長矩」で、彼の外叔父の内藤忠勝が、1680年(延宝8年)に四代将軍法要の席で、同僚の大名永井尚長を刺殺した事件を起こしています。法要の進行を巡るトラブルが原因とされていますが、これも真相はわかっていません。
 幕府は、忠勝の乱心として処理し、内藤家を取り潰しました。乱心、つまりは精神異常ということで、長矩も叔父と同様精神を病んでいたのではないかと稲垣氏は指摘しています。勅使接待の重圧と作法の厳密さが長矩にのしかかり、ついに切れて、刃傷へ!吉良さんもえらい生徒を持ったものです。
 吉良さんからすると、長矩が何故切れたのか分からないので、唖然とするばかりで無抵抗でした。ですから決して喧嘩ではなく、両成敗の理論は成立せず、吉良さんは無罪、長矩は切腹という次第となったわけです。しかし、この幕府の処分に対して、人々の不満が集まり、幕府は仇討ちを黙認する態度をとりました。そして、仇討ちが成功し赤穂浪士らの処分をどうするかが大問題として幕府に突きつけられました。
 さて、ここで、シリーズ一回目の「浄瑠璃坂の仇討(1672年)」です。この事件では、仇討ちは正当化されています。ここでは、「情」が優先され「法」が後となり、首謀者は火付けの罪に問われたのみでした。その後、赦免され再就職しました。では、今回の仇討ちに対して「情」を優先するか、「法」を優先するかで大論争となり一月半も議論されました。浪士らの助命嘆願の動きもありましたが、「法」が優先され「徒党の禁」を犯したので全員死罪、しかし武士の
忠義を守ったので切腹ということで幕がおりました。助命嘆願論を制止した論の一つに、再就職目的論があります。
浪士らは、先の「浄瑠璃坂の仇討ち」の処分を計算に入れ、その場で切腹せずに幕府に処罰を任した。
これは無罪になる可能性を当てにし、さらに注目を浴び再就職を有利にしようとした確信犯であるとする論です。確かに、浪士らは「浄瑠璃坂の仇討ち」を充分研究していましたのであり得ない話ではないと思います。こうして考えてみますと、吉良さんが気の毒でなりません。
 そこで、万昌院功運寺(中野区上高田四丁目)「吉良さんのお墓」に行ってきました。もとは、筑土八幡町にあり、吉良家の菩提寺として知られています。
目を引くのは「吉良家忠臣供養塔」です。「忠臣」という言葉は、赤穂浪士の専売特許のようなものでしたが、立場が変われば吉良家の家臣もまた「忠臣」ということになるという事実に驚きました。有名な事件の当事者のお墓にしてはあまりにも静かです。
 一方の泉岳寺には、観光バスが乗り付け、大勢の人々が墓参し、お線香がもうもうとたかれいます。そこで、私は線香を持参し吉良さんのご冥福をお祈りしました。皆さんも、十二月十四日にお線香を持って吉良さんのお墓参りなどをしてみたらいかがでしょうか。
 最後に、今回の記事は諸説ある中から吉良さんよりの意見を採用したもので、決して忠臣蔵を中傷するものではありませんので、どうぞあしからず。