新宿区内を散策して集めた「タイムトリップ」の記事です
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タイムトリップ
忠臣蔵と新宿 No1 浄瑠璃坂の仇討ち
(10月/2001 by 清水裕二)
さて、この坂は閑静な住宅街の中にあります。(神楽坂から一本西の牛込中央通りをちょっと入ったところ)区の文化財指定のプレートが、不似合いにたてられていて通行人もほとんど坂の名前、仇討ちのことも気にもせずに歩いています。しかしプレートをよく読むと興味深い話が書かれています。「江戸の三大討ち入り」の一つで、あの赤穂浪士らが大いに参考にした事件であることが書かれています。
事件から4年後、源八らは隼人らを見つけ、1672年2月2日に総勢名で討ち入りを実行しました。見事父の仇を討った源八らは、奉行所に自首してお上の判断に任せました。
時の大老井伊直澄は歳の源八の潔い態度に感銘し、命を助け伊豆大島への島流しで処分を済ませました。
源八は、6年後に許されて江戸に帰り、すぐに井伊は、自藩に召し抱えました。他の討ち入り参加者もあっぱれな武士と言うことで他の藩にそれぞれ召し抱えられました。
父の敵を討ちじつにあっぱれ!と言いたいところですが、見方を変えると四二名と言う大人数で1つの家を襲い、一族を皆殺しにしたテロ事件です。1対1の仇討ちは合法ですが、集団による仇討ちは禁止されていましたので、この行為は非合法の活動です。だから、処罰をお上に任したのです。
この後に発生する赤穂浪士の討ち入りも当然非合法の行為です。しかし、犯罪と分かっていながらも、武士としてはやらねばならぬ!というわけで、赤穂浪士達はこの仇討ちを研究して、作戦を練りました。そして仇討ち完了後に、処分をお上に一任したのは、この「浄瑠璃坂の仇討ち」をうまく下敷きにしているのですが、結末は赤穂浪士らは切腹を命じられました。
以上のように大事件と深い関係のある場所にしては、あまり知られていない場所です。「浄瑠璃坂」の由来は諸説ありますが私は以下の説を採ります。この坂は、六段になっていて、普通なら「六段坂」というところを、浄瑠璃の物語が六段で構成されているので洒落て「浄瑠璃坂」にしたのではないかという説です。いかにも江戸らしい話ですね。
その事件は江戸時代の1668年に起きました。宇都宮藩家老奥平内蔵允という人物が、藩主の葬儀の際に同僚の家老奥平隼人を口論の末、刀で斬りつけ、その責任をとり切腹するという事件を起こしました。彼の子源八は、ことの原因は隼人にありとして仇討ちを決意しました。(この時源八は歳)隼人らは、藩を追放され浄瑠璃坂の上に住居を構えていました。