---狂歌師 「蜀三人」 は真面目な役人だった---
 江戸時代後期の文芸家として知られている大田南畝は、北町41番地で生まれ人生の大半を牛込の地で過ごしました。北町・中町・南町と、この地域の町名は面白くありませんが、実は江戸時代には北御徒町・仲御徒町・南御徒町といわれ、「徒組(かちぐみ)」の武士らが住む社宅でした。この「徒組」というのは武士といっても位は高くなく、「歩兵」です。馬上の旗本の周りにつき、徒歩で戦場を駆けていた存在です。彼らは御家人といわれ、江戸幕府の下っ端役人でした。
 南畝は、幼少の頃より優秀な成績でしたが、このような身分の出身でしたので立身出世を望まず、貧乏でも風流の世界に生き、狂歌師としての名声を得ていました。ところが、彼の人生に思わぬアクシデントが起こります。彼が風流の世界を生きている時の為政者は、田沼意次でした。南畝の文芸仲間に田沼の部下がいました。その部下と南畝は非常に親しく交流していました。そのため、田沼が失脚し、松平定信の治世になると田沼の汚職政治を一掃するために、田沼派が粛清されました。この一連の粛清のなかで、南畝も嫌疑がかけられます。さらに「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶ(文武)といふてよるもねられず」という狂歌の作者としても疑われました。
 南畝は、非常に真面目な面も持った人だったので、幕府から一連の嫌疑をかけられたことに大きなショックを受けました。狂歌などという浮ついたことをやっていたからこんな疑いをかけられるのだと思い、狂歌師であることを自ら封印してしまいました。南畝の第二の人生、それは「一官吏として政務に励み、幕府のために尽くそう!」というものでした。
 そこで南畝は四四歳で昇進試験に挑戦し、四六歳で主席合格します。ここから南畝は優秀な官吏として活躍します。江戸勤務だけではなく、彼は大坂・長崎にも赴任しました。その赴任先で、一筆を頼まれ断り切れずに「蜀山人」と号して、作品を残しました。このため「蜀山人」の名の方が有名となりました。彼の気持ちとは裏腹に、狂歌師「南畝」の名声はいつまでも残りました。
 南畝がいくら否定しても、「狂歌師」の名声は付きまとい、出世に影響を与えました。彼は中級役人のままで生涯を終わりました。
 南畝最後の仕事は、六〇歳の時の玉川の視察です。東京湾の河口から上流の羽村までの堤防の調査でした。還暦を過ぎた身でこのような大変な調査を命じられるのですから、幕府の南畝に対する態度が推しはかれます。この仕事を終え、大久保に宅地をを幕府から賜りやっと隠居生活にといいたいところですが、彼はまだ引退しませんでした。その訳は、彼の息子が病弱でなかなか勤めに出られず、やっと出仕しても職務に耐えられずにすぐ辞職してしまったからです。彼はなんと七〇歳まで公務に就いていました。
 彼は、第二の人生を目標どおりに生きました。江戸時代の偉大な文芸家は、超真面目な公務員だったのです。

新宿区内を散策して集めた「タイムトリップ」の記事です
入会申込
E-mail:
honbu@shinjukuminshou.org
12
タイムトリップ
2002年4月 by清水裕二
大田南畝誕生の地 北町