寒泉精舎跡(揚場町) 2002年3月 by 清水裕二
「寒泉精舎」とは、江戸の寛政期の朱子学者岡田寒泉が設立した私塾の名です。岡田寒泉は、「寛政の三博士」の一人として歴史の教科書に載っています。
彼の活躍した時代は、「寛政の改革」で知られる松平定信が世を治めていました。この改革は、彼の祖父吉宗が行った「享保の改革」をモデルとして実施されました。「質素倹約」をスローガンとするのはいいのですが、これを庶民までも徹底しようとして、はなはだ不評でした。
「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)といふて夜もねられず」という狂歌まで詠まれる始末でした。こ一連の改革の中に、「寛政異学の禁」というものがあります。これは、幕府公認の聖堂学問所で朱子学以外の教授を禁止するという内容でした。朱子学は儒学の一派で、家康が幕府の体制維持に利用するために取り入れ、以来この学派が正統という地位を与えられていました。
しかし、この学派は、知識の習得を重視する傾向にあったため、他学派に人気を奪われ衰退していました。この不人気を挽回するために出されたのがこの法令です。定信は当初、「異学の禁」は聖堂学問所に限定するので大きな影響はないと考えていました。ところが、幕府が公認する学問所で起きたことですから当然諸藩にも影響が及び、果ては町の私塾にまで。私塾では一斉に生徒が去り、閉校に追い込まれていきました。今風に言えば、公務員採用試験科目が朱子学に限定されたということです。いつの時代も受験生はしたたかということでしょうか。
このはなはだ不評の政策を推進したのが、柴野栗山・尾藤二洲・岡田寒泉です。ですから、岡田寒泉に対して好印象を持っていませんでした。ところが、岡田寒泉は学者としてだけの生涯を終えた人ではなかったのです。彼は、「異学の禁」が出されてすぐに常陸国(茨城県)の代官として転出しました(約六年間)。彼は赴任地で数々の功績を上げ現地の人々から「岡田大明神」と 崇められました。
普通は学者が政治を行ってもなかなか成功しないものなのですが、この岡田先生は真に偉大な学者政治家だったことがうかがえます。彼は、代官を辞職した後に、幕府からの拝領地(揚場町)に戻り、家塾「寒泉精舎」を開きました。彼の塾の様子が「朝ごとに句読を授け、会日を定めて講えんを開き給えりしに、門人賓客にみちて塾中いること能わざるになべり」と当時の塾生が描写しています。
この塾は岡田先生がなくなる一年前まで開かれていました。閉校の理由は、先生が病気となり、毎朝の講義ができなくなったためでした。先生はこの土地は幕府からの拝領地であるから講義が継続できないのなら公務を果たしていることにはならないとして、塾を打ち壊し更地にして幕府に返上するという次第でした。なんとも潔い態度ではないでしょうか。「寒泉精舎」を記念するプレートは、ビルの壁に埋め込まれています。よほど注意しないと発見することはできないくらい、目立っていません。こんな身近に偉大な先人の跡にふれることができ感慨無量でした。
新宿区内を散策して集めた「タイムトリップ」の記事です
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