新宿区内を散策して集めた「タイムトリップ」の記事です
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タイムトリップ
幡随院長兵衛  2月/2002年   by 清水裕二

 十郎左衛門と幡随院長兵衛といえば、「忠臣蔵」と同じくらい有名な名前です。水野率いる旗本奴と長兵衛率いる町奴が対立し、最終的には水野が長兵衛を殺してことの解決を図った。その死体が、流れ着いたのが隆慶橋(新小川町一丁目四番地)ということになっています。この事件、歌舞伎などで上演され、現在でもドラマの題材になっていますが、歴史考証が不十分で諸説が入り乱れていました。例えば、水野の屋敷ですが、この橋に長兵衛の死体が流れ着いたので、牛天神下(文京区春日)にあったとされていますが、藁店(神楽坂)・逢坂上(船河原町)という説もあり、はっきりしていませんでした。長兵衛が殺された日時についても同様でした。
 この問題を詳しく考証して結論をつけた本が『続考証 江戸八百八町』(綿谷雪著)です。この本によると水野の屋敷は西神田、事件のあった年は1957(明暦3)年と指摘していますが、長兵衛の正体は不明とされています。これほど有名な人物でありながら「正体不明」とは驚きです。何が史実としてはっきりしているかといいますと、水野と旗本奴の存在です。時代も三代家光の晩年の頃から安定した時代に入り、武士達の活躍の場がなくなってきました。浪人達も再就職できず巷にあふれ、「由井正雪の乱」の原因の一つになりました。幕府の内部では武士から官僚に変われない旗本達が江戸市中で愚連隊のごとく暴れ回り、庶民が被害を受ける事件が続発しました。庶民らが、「恐れながら…」と奉行所に訴えても、お役人も旗本で仲間同士で生ぬるい。あまりに酷いので、きつく諫言しても今度はご先祖の名を持ち出して、役人をへこませる始末です。水野家は徳川家康の生母御大の実家、神君家康公の名を出されたら役人達はひれ伏すばかりだったのです。
 このような状況を何とかしようとして立ち上がったのが、長兵衛率いる町奴らです。お上がやらぬならば俺達がという具合で、両者は対立を深めていきました。この状態を静観していた町奉行所は、両者を激突させて一気に旗本奴らを逮捕する計画を練っていました。そこに起こったのが長兵衛暗殺事件、奉行所の思惑どおり報復合戦が始まり、江戸市中が混乱し、その元凶を断つという名目で旗本奴らは処罰されました。
 水野は、名門の出ということでこの時処罰をのがれましたが、その行状が改まらないということで、1664(寛文4)年(事件から7年後)に切腹、2歳の息子も処刑されました。水野家は断絶しましたが、後に弟が家を再興しました。水野は最後まで悪役を演じました。
 そのお墓はあの吉良さんのお墓と同じ場所(中野区上高田・万昌院功運寺)にあります。江戸時代を代表する二大悪役のお墓が同じお寺にあるのに、ここを訪れる人はまれです。